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取材・文:末吉陽子(やじろべえ) 撮影:藤本和成

日本古来の染物技術を守る伝統工芸優秀技能者・藤本義和さん(81歳)
「丁稚時代は逃げ出すほど辛かった」挫折から積み重ねた60年の職人人生

布地に華やかな彩りを加える染物。今では、機械で簡単かつ大量に染められるよ うになりました。しかし、昔ながらの手仕事が生む逸品には、決して量産できない特別な美しさや風合いがあるものです。そんな、伝統的な染物技術である「型染め」と「木版染め」を極めているのが、藤本義和(ふじもと・よしかず)さん。80歳を過ぎてなお、現役であり続ける伝統工芸優秀技能者です。

60年にわたり、ひたすら技を磨き続けた職人人生。修業時代は辛くて逃げだしたこともあるといいますが、そこから這い上がり、いつしか生涯現役を志すほどに染物の世界に魅せられていきます。そんな藤本さんの、「はたらくヨロコビ」に迫りました。

染物職人は「デザイナー×色使いのスペシャリスト」

お話を伺う前に、藤本さんのお仕事を拝見させていただきました。

まずは、和紙に彫られた図柄を布に絵付けしていく「型染め」から。なお、図柄のデザインは別の職人に発注し、仕上がったものに刷毛で色を付けるのが藤本さんの仕事です。

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「型染め」にとってなくてはならない材料が糊(のり)。米を練ったものに、少量の「藍」を混ぜ、数十㎝の型紙の上にヘラで薄くのばしていく。これが固まると染料をはじき、糊が付いていない部分だけが染まる。柔らかすぎても固すぎても駄目、天候によっても固まり具合が変わるデリケートな材料で、糊づくりだけでも何年もの修業が必要なのだそう

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糊が固まったら、刷毛で様々な色を重ねていく。着物ともなると、13メートル近い布地を一色ずつ塗り進めていくそう。この色使いに、職人の個性が現れる

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染め上がったら蒸して熱を加え、水洗いをして糊を落とし、乾かして完成。細かく繊細な色と柄は、型染めならでは。機械では決して再現できない

次に、「木版染め」。型染めよりもさらに古い技法で、この技を継承しているのは数人しかいないそうです。
朴木(ほおのき)に柄を彫った木版をスタンプのように布に押していく染め方で、木版自体も藤本さんが制作しています。

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草花や文様など、さまざまなモチーフの柄がある木版。藤本さんは、器のデザインを参考にすることが多い

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一つひとつ手押しで染めるため、型染め以上に手間暇かかる技法

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淡い色味が印象的な、何とも味わい深い仕上がりに

染物の世界に飛び込んだ理由は“お寿司”?

―― 藤本さんは、81歳で現役の染物職人として活躍されています。これまで東京都知事賞、通産大臣賞といった数々の賞を受賞されるなど、染物の世界ではその名を知られた職人さんでいらっしゃいますが、なぜ染物の道に進もうと思われたのでしょうか?

「私は勉強があまり好きじゃなかったんで、地元・八王子の工業高校に入ったんです。そこに染色工業科ってのがありまして、どちらかと言うと化学的な染料について学ぶようなところですね。卒業後の進路としては、たとえば東レや大日本インキといった化学系の企業で、研究職に就く人も多かったです。私の場合、家業が織物をやっていたのですが、兄が継いでいたので、卒業するまでは将来染物の道に進むかどうかは考えていませんでした」(藤本さん、以下同)

―― 転機となったのはいつだったのですか?

「ある日、父親の知り合いから、『お前、卒業して何になるんだ?』って聞かれて、『別に考えてません』と。そうしたら、『お前、ふらふらしているなら、ちょっと、紹介したいところがある』って、連れて行かれたのが染物工場。新宿区神田川沿いの老舗『みゆき染め石井』だったんです」

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「みゆき染め石井」は、江戸庶民の遊び心から生まれた江戸小紋を得意とする有名な染工場

―― それから面接などをされて、弟子入りを……?

「いやいや面接らしいものはありませんでしたね。工場を見せられて、それからお昼をご馳走になったんですけど、それで私、騙されちゃったんですよね(笑)」

―― 騙された……とは?

「お昼にね、江戸前寿司を食べさせてもらったんですよ。新宿の中井にある『白雪鮨』っていう赤塚不二夫も通ってた有名なお寿司屋さんがあって、そりゃあ何とも旨かった。こんな美味しいものを食べさせてくれるとは、いいところじゃないかと。それで、『うちに来るか?』って言われて、『はい』と。そもそも、会社勤めっていうのが好きじゃないと思っていたので、何か自分で技術を身につけたいという考えはあるにはあったんです。ただ、その日が最後、それから長くて辛い修行生活が待っていました」

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ひょんなきっかけで、老舗の染め工場の門をたたいた藤本さん。待っていたのは過酷な修業生活だった

―― 具体的に、どのような修行生活だったのでしょうか?

「入門してすぐは、『丁稚小僧(でっちこぞう)』って呼ばれるんですが、住み込みで広いところに雑魚寝して、6時半には起きて、21時くらいまで働きます。トイレから工場の掃除、職人さんたちの道具の準備まで、要は下働きですね。休みは月に1回くらい、給料はなし。たまに、散髪代として小遣いをもらうくらい。ちなみに、今でもこの頃の悪夢を見て『給料をもらってない』とうなされますよ(笑)。当時、丁稚小僧は20人ほどいましたが、ほとんどが地方の三男坊や四男坊。皆、ご飯が食べられさえすればいいという、そういう時代でした」

―― 辞めたいと思ったことはなかったですか?

「ありましたよ。実のところ2年目くらいで一回逃げましたしね(笑)。職場の誰にも何も言わず、実家に帰りました。父親が『今日はどうしたんだ?』って聞くから『暇をもらったんで』ってごまかしたんですよ。でも、数日経ってもなかなか帰らないから、さすがの父親も『お前、何かあったのか?』って追求してくる。のらりくらり返事をしていました。そうしたら、ちょうど親方から電話が入ったんです。『かずちゃん帰ってないですか? 急にいなくなったんです』って。それでバレちゃった」

―― それで観念して、工場に戻られたんですね。

「父親に諭されてね、仕方ないか……と。工場に戻るまで、怒られるのかなと心配だったのですが、親方が何も言わないんですよ。怒りもしないし、説教するでもない。本当に自然に接してくれて。これには参りましたね。心底申し訳なかったなと思って、気持ちを改めました。
それから仕事に戻って頑張り続けていたら、だんだんと認められるようになって、3年目くらいから接客を任されたり、5年目くらいになると集金にも行かせてもらったりするようになりました」

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今では一流の伝統工芸優秀技能者として知られ、生涯現役を志す藤本さん。しかし、若かりし頃は仕事に悩み、もがき苦しんでいた

―― 認められるようになったのは、なぜだと思われますか?

「丁稚小僧のほとんどが、なんとなく言われたことをして、ご飯を食べさせてもらう感覚だったと思います。でも、私は修業をしながら、『もしかしたら一生の仕事になるかもしれない』って思うようになったんです。それから取り組む姿勢が他の人とは違ったんじゃないかなと思いますね」

60年やり続けても、仕事の楽しさは変わらない

―― 染物の仕事のどんなところに惹かれたのでしょうか?

「型染めについて言えば、着物の布に型を置いて、糊(のり)をのばし、それから刷毛で染料を塗って、水の中で糊を落としていきます。こうした流れを職人が分業して行う。大変ではありますが、仕上がるとすごくいい物ができるんですよね。伝統的な技法ならではの、細かい工程を経てだんだんと作られていく喜びがある。それは60年やり続けていても変わりません」

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型染めの図案は、京都で行われる図案展に出している作家に交渉してから、モチーフを伝えてオリジナルを制作。その後、染めたものを呉服屋が買い付け着物になる。しかし、それだけ苦労しても呉服屋から注文が入らず、日の目を見ないこともあるのだとか

―― 修業を挫折していたら、そんな喜びにも気づけなかったですよね。

「『石の上にも3年』って言葉がありますが、あれは本当にそうですね。私も修業をはじめた当初は嫌なことばっかりでしたけど、人間って不思議なもので3年過ぎると意外に慣れちゃうんですよね。だから、それまでは我慢ですよね。
なんとなく過ごした3年間と、どんなことでもいいから頭と身体にたたき込もうと踏ん張った3年間、それは先々の差になってくるのかなと思います」

―― 我慢の時を経て、仕事の楽しさを覚え、その後独立に至るわけですよね。独立しようと思ったきっかけは何だったのでしょうか?

「修業して5年ほど経ったときに、ある程度自分でもできるかなと思ようになったんです。婿入りしないかと口説かれたこともあったんですけど、そういうのは嫌でね。思い切ったことができないし、自由がなくなる気がして。それで、やっぱり独立しかないと、親方に話を切り出しました」

―― その時の親方の反応は?

「優しかったですよ。当時は退職金があったんですけど、私が『退職金はいらないです』って言ったら、『それなら型紙を持っていけ』って貴重な型紙を少しわけてくれたんです。型紙は職人の命なので、とてもありがたかったですね。しばらくはそれを使って仕事をさせてもらっていました。それから何年かして、自分の型紙を作るようになりました」

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「みゆき染め石井」から譲ってもらった貴重な型紙。今も大事に保存している

やり続ければ、いつか天職になる

―― 独立すると自由な反面、導いてくれる人がいなくなり、全てが独学になってしまいます。そんななかで、どうやって技術やセンスを磨いていったのでしょうか?

「修行時代、師匠によく『馬鹿面して、電車に乗ってるんじゃねーぞ』と言われました。要は、ぼーっとしているんじゃなくて電車の広告を見ろということでね。広告というのは流行色を使っているから、見極めて染物にも活かすことで、品物の価値が違ってくるっていうんですよね。それは一つの例ですが、そういうことの積み重ねです」

―― そうした地道な努力を重ね、独立後ほどなくして全国コンクールで優勝も果たしていますね。

「いいものを作って自分の仕事を認めてもらうのはもちろんですが、成長を実感するにはやはりコンクールで賞を取るのが 一番かなと思っていたんです。年1回、京都で全国染織コンクールというのがあって、何千点の作品が集まるんですが、それで最高賞を目指そうと思いました。以前勤めていた工場の職人で最高賞を取った人もいましたから、独立したら自分も絶対に出品しようと考えていたんです」

―― 最初からいい結果が出たんですか?

「いや、最初の3年ほどは鳴かず飛ばずでしたね。型紙ではなく木に柄を彫って染めてみたり、大工さんが壁にインクを吹 き付けるコンプレッサーを使ってみたり、焼き鳥の串を使ってみたり、色々工夫しました。でも、入賞できないのが悔しくてね。その頃はコンクール漬けだったと思います。それで、4年目の挑戦で一気に1位と3位を獲得したんです。それから、周囲の評価が変わってきたと思います」

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独立後、腕試しにと挑んだコンクール。挑み続けることで結果を残し、自らの市場価値を一気に高めた

―― 聞けば聞くほど、藤本さんにとって染物は天職なのだなと感じるのですが、他の仕事をしようと思ったことはないんですか?

「じつは昔ちょっとだけ、競馬の騎手になろうと思ったことがあるんです よ。高校のときにスポーツが得意で、足の速さも何千人と生徒がいる中で5番目くらい。それで目立っていたのか、先輩たちにも可愛がってもらっていて、身長も低かったので『お前、競馬の騎手になったらいいんじゃないか』って言われて、なくはないなって。でも、競馬学校に入るには遅かったんですよね。それ以来、染物の仕事をしはじめてから、他の仕事をしたいと思ったことは全くないですね」

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藤本さんにとって染物の仕事は人生そのもの。60年ひたすら積み重ねてきた職人の言葉は深く、重い

―― 藤本さんのように、人生を賭して夢中になれる仕事に出合える人はそれほど多くないかもしれません。今、やりたいことが分からずに悩んでいる人にアドバイスをお願いできますか。

「私はもともと染めが好きなわけではなかったし、たまたま働いたところが伝統的な染物工場だった。でも、これが私の運命だったんですよね。途中から染めの面白さに気がついて、それからは一筋です。
自分が少しでも好きだと思えることがあったら、とりあえず3年取り組んでみる。挫折したって、決して恥ずかしいことじゃないから。好きな道を歩んでいれば、それがいつの間にか天職になっているかもしれませんね」